坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の経歴は?実家はお金持ちでエリートだった?

スポンサーリンク
有名人

現在NHKで放送されている連続テレビ小説「らんまん」で主人公の友人の堀井丈之助のモデルが小説家の坪内逍遥であることが明らかになり話題になっています。

ただこの坪内逍遥についてあまり知らない方も多いのではないでしょうか?

実は日本の近代日本文学におおきな影響を与えた人物だったりします。

今回は坪内逍遥の経歴や実家はどんなところだったのか?などを調査していきます。

坪内逍遥の経歴

坪内逍遥は1859年6月22日に現・岐阜県美濃加茂市で生まれ、小説家、評論家、翻訳家、劇作家として活躍していくことになります。

本名は坪内勇蔵(つぼうち ゆうぞう)といいます。※のちに雄蔵に改名します。

坪内逍遥の父は太田代官所の手代を務めていましたが、明治維新とともに実家のある名古屋市笹島村へ一家そろって帰省します。

父から漢学書類を読まされた他に、本や芝居が好きな母の影響を受け、絵をかくことが大好きだったようです。

幼いころのこの経験が文豪としての才能を開花させるきっかけになっていたのかもしれませんね。

1876年に東京開成学校に入学し、東京大学予備門⇒東京大学文学部政治科と進学していき、1883年に同校を卒業します。

卒業後は早稲田大学の前身である東京専門学校の講師となり(のちに大学教授になる)、ウォルター・スコット『湖上の美人』の翻訳である『泰西活劇 春窓綺話』やシェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の翻訳である『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』を出版します。

1885年には『小説神髄』を発表します。また6月24日~翌年の1月まで合計17号で完結した当『世書生気質』も発表しており、両作品ともに自身の代表作となっています。

1891年には雑誌『早稲田文学』を創刊する。1897年(明治30年)前後には戯曲として新歌舞伎『桐一葉』『沓手鳥孤城落月』『お夏狂乱』『牧の方』などを書き、演劇の近代化に貢献した功績もありました。

早稲田大学の講義は続けていたが1927年7月、「老齢任に堪えず」として総長に辞意を伝え、同年12月末、『リア王』の講義が終了するのを機会に教壇から退きました。

終末期には最後までシェイクスピア全集の訳文改訂に取り組み、『新修シェークスピア全集』刊行とほぼ同時に逝去しました。享年77歳でした。

坪内逍遥の実家はどんなところだったのか?

もともと父の坪内平右衛門信之が地方役人のような身分だったため、生活は比較的裕福なようでした。

また明治維新後、実家へ帰省するのですが、そこでの暮らしも「父から漢学書類を読まされた」とされた他、母の影響から心ゆくまで芸術を堪能できているところを見る限り、とても恵まれた環境にいたことが伺えます。

また明治初期の時代に「学士」を取る人も少なかったことからエリートと言って差し支えなかったと思います。

坪内逍遥の父親はどんな人だったのか?

坪内逍遥の父、坪内平右衛門信之はで太田代官所の手代を務めていました。現代でいうところの財務省の役人が近いところだと思います。

また、武士身分であり坪内家は尾張藩士という家柄であり、尾張藩士は徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)になります。

息子の坪内逍遥に漢学書類を読ませることから、彼自身も文学に親しみがあったのかもしれませんね。

まとめ

今回は日本の小説家、坪内逍遥についてお伝えしました。

連続テレビ小説「らんまん」がきっかけでこの坪内逍遥について調べた方も多いのではないでしょうか?

坪内逍遥が現代文学に大きな影響を与えたとされていますが、まだ文学がそれほど力を持たない時代にこれだけ功績を残せたのは、家柄は父親の方が武士身分だったことも関係していたかもしれませんね。

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました